もともとはバイク部品と売る会社のサラリーマンだったが、久保兄弟の両親が経営するバイクショップに入り浸るうちに、バイクに熱をあげていく。城北ライダース黎明期のチームの中心的な存在だった。高いライディング技術と、マシンのチューニングの技能を兼ね備えていた。1962年にスズキのワークスライダーとしてヨーロッパに渡り、ロードレース世界GPに出場。1964年の(4輪)第2回日本グランプリに日産ブルーバードで参戦し、2位に入った。1965年に日産大森ワークスと正式契約し4輪に転向。1974年の「富士ビクトリー200キロ」で事故死。
18歳で日米対抗スクランブルにデビュー。1960年代の国内モトクロスでは無敵で、数々のレースで優勝を重ねた。スタミナとパワーは群を抜き、富士で開催されたイベントでは50cc、125c、250cc、オープンクラスのすべてに出場して優勝という離れ業を演じたこともある。1964年には第1回モトクロス日本グランプリ大会では125ccと250ccクラスを制覇。1965年にスズキワークスライダーとして、日本人として初めてモトクロス世界GPに出場。東名自動車の設立にも携わり、のちスズキ系のレースマシンのサプライヤーとしてSRSクボを設立。レーシングチームも持ち、数々の選手を育成した。
1960年、第3回の全日本モトクロスに15歳でデビュー。城北ライダースに加入し、急速に力をつけた。一時は東名自動車に籍を置くが、2輪活動に専念。その後もスズキワークスライダーとして、1970年代までモトクロスで活躍。全日本モトクロス選手権(セニア125)で1969年と1971年にチャンピオンを獲得するなど、日本を代表するモトクロス選手のひとりだった。1987年、選手引退後に出場したアマチュア向けイベントで、運営側のミスによって逆走してきたマシンと接触して事故死する。
なかむらようじ
なかねたける
くぼとおる
うちのまさはる
さなだたいご