【城北ライダース65周年記念】創設メンバー久保和夫インタビュー前編

2025.02.09

「城北の強さの秘密はライダーが自分でマシンをつくることでした」

城北ライダースは私とふたりの兄貴(靖夫・和夫)、おやじ、鈴木誠一さん、松内弘之さんが集まり、オートバイのレースクラブをつくったことによって始まりました。1958年に日本で初めてのモーターサイクルレースの主催団体、全日本モーターサイクルクラブ連盟(MCFAJ)が立ち上がりましたが、レースに参加するためには当時メンバー5人以上のクラブで加入する必要がありました。それで上記のメンバーと正式にチームを結成しました。

その時、「名前をどうするんだ?」ということになったのですが、東京では江戸城を中心として“城東・城西・城南・城北”という地域わけがあり、私たちはたまたま城北地区に住んでいたこともあり、単純に『城北ライダースクラブ』、通称JRCということにしたんです。

チームの中心的存在だった誠(せい)さんとは、もっと前から知り合いでした。うちのおやじが板橋で自動車整備工場『大谷口モーター』を経営していました。2輪も4輪も、当時は3輪もよく走っていて、全部を面倒みていました。そこにある時、誠さんがオートバイの4サイクルエンジンのクランクシャフトを持ってきて、「これを改良したいんだけど、工具がないから貸してほしい」と、飛び込みできました。それでうちのおやじも「いいよ」ってことで、そこから誠さんはうちのおやじの店によく来るようになったんです。

1958年の夏に浅間高原自動車テストコースで第1回の全日本クラブマンレースが行われ、誠さんと松内さんが城北ライダースとして出場しました。それまで当時“スクランブル”と呼ばれていたモトクロスのイベントには何度も出場していましたが、公式戦はこれが初めてでしたが、これが初めての公式戦です。

翌1959年の4月には第1回全日本モトクロスが開催されました。会場は、大阪府和泉市の信太山の特設コースでした。そこで私と松内さんが出場し、125ccクラスで私が優勝し、松内さんが2位になりました。また全クラスの上位入賞のマシンで戦うオープンクラスでは北さん(北野元)が優勝し、私が2位、松内さんも4位と入りました。その結果、たったふたりだけでクラブ優勝をすることができました。

1960年にスズキと契約するまではバイクを購入するのも、パーツを買って改良するのも、レースに出るための旅費も全部自腹です。チームのみんなは最初、うちのおやじの工場でバイクをいじっていましたが、そのうち誠さんの実家の隣に、彼のおじさんの大きな土地があったので、その脇に工場をつくりました。みんな仕事をしていたので、仕事が終わるとそこに集まっていました。

その後、誠さんのおじさんが土地を売り出すことになったので、スズキに相談して、ちょうど第三京浜の川崎インターの近くに土地を購入してもらいました。そこで工場を建て、チームの本拠地も川崎に移しました。

川崎の工場は5~6人は泊まれるようなところもあって、2階が工場と部品庫で、下が作業場。その頃には矢島(金次郎)、藤井(敏雄)、森下(勲)、菅家(安智)などのメンバーに加わっており、ライダーはみんな自分たちでバイクをつくっていました。当然、みんな技術的にわからないことがありましたが、メンバー同士で教え合ったりしていました。で、マシンの改良が終わると、工場の周りでテスト走行をしていました。

実は、これこそが城北ライダースの強みだったんです。誠さんのモットーは「乗る人はマシンを知らなければならない」ということでした。そうやって、チームのみんなを引っ張っていました。

1962年に誠さんはロードレース世界選手権に、1965年には僕が日本人としては初めてモトクロス世界グランプリにスズキのワークスライダーとして参戦しましたが、その後、スズキがモトクロスを含めてレース活動を縮小したいと言ってきました。ただし、完全にレース活動の火を消してしまうと、再び参戦する時に大変になるので、矢島だけは残したいということでした。

城北ライダースのメンバーは、スズキと契約した時からずっとお世話になるつもりはないと言い続けてきました。でも実際にスズキとの契約が終わることになった時に、「じゃあ、次は何をしようか?」とみんなで話し合いました。

その頃、誠さんはニッサンとも契約し、二足のわらじを履いていました。私たちもニッサンのSRやSPのチューニングやテストドライバーをしていたこともあり、4輪のチューニグカーショップをやろうということになり、誠さん、兄貴たちと立ち上げたのが東名自動車です。そのタイミングで誠さんとともに都平(健二)、黒沢(元治)、長谷見(昌弘)が日産に行くことになりました。僕も誠さんを通じて「日産に来ないか」と誘われましたが、当時は「モトクロスの世界選手権でもう一度勝負したい」と思っていたので、断りました。

でも結局、モトクロス世界選手権に挑戦するチャンスは訪れず、28歳でレース活動をやめて、東名自動車に4年間在籍。そのあと自分でスズキ系のレースマシンのサプライヤーとしてSRS(スズキ・レーシング・サービス)クボを立ち上げ、長い間、活動を続け、何人かのライダーを育てることができました。

それは「強いライダーはメカのこともわかっていなければならない、自分でマシンをつくることができないといけない」という城北ライダースで学び、培った哲学があったからだと思っています。

城北ライダースでの一番の思い出は先にも述べた信太山での第1回全日本モトクロスで、松内さんと僕のたったふたりでクラブの団体優勝をしたことです。その後、城北ライダースは全日本モトクロスで9連勝を達成しています。

僕自身のことで言えば、“初物”に強いんで。1959年のMAFCJ主催の第1回全日本モトクロスで優勝し、1964年には日本モーターサイクルスポーツ協会(MFJ)主催の第1回モトクロスGPでも勝つことができました。モトクロスGPは群馬県の相馬が原で開催されたのですが、イベントは2日間あって、初日の関東選手権で125ccと250ccでチャンピオンになりました。そして翌日のグランプリでも125ccと250ccを制覇し、チャンピオンになりました。つまり2日間で4回も勝ちました。それはうれしかったですね。

でも当時をあらためて振り返ると、工場の中でチームのメンバーと一緒に一日中マシンをいじって、改造しては工場の周りでテスト走行したり、海外旅行が珍しかった時代にマウンテン・ライダースの小嶋(松久)とふたりでヨーロッパのモトクロス世界選手権を転戦したり……。あの日々は本当に充実していて楽しかったと、心から言えます。